女性・女性


 私は21歳のとき、映画についてものを書く30歳手前の自分を想像して、以下のような文章を残していた。

 ゴダールは妻に見せるために映画を撮る。その点で、彼の映画は絵画的である。映画に収めた妻の肖像を彼女自身に見せる瞬間こそ、彼にとり最も強度を感じる瞬間である。ガレルがセルジュ・ダネーとの対話で、ゴダールの作品についてこのように発言したと記憶している。
 私は学生時代に一度だけ、長編の劇映画を撮っている。当時夢中になった女性を、映画の主演にすえた。彼女は役を真に引き受けてくれたから、私の言うことに従ってくれる。彼女は長く連れ添った妻ではないし、カサヴェテスや新藤兼人のようにはいかない。ゴダールを思い浮かべる。好きに走らせ、歌わせ、がむしゃらに追いかけるアンナ・カリーナ時代と、政治への言及に縛りつけ、闘士を演じさせるまでに至ったアンヌ・ヴィアゼムスキー時代である。私はどちらの固執にも好感を持たなかった。どちらの方法でも、女性はいつか離れていく。映画を作るのに、女性への想いが強すぎるのは問題だと考えた。私は『女と男のいる舗道』より『中国女』を好んだし、カリーナよりヴィアゼムスキーがタイプだったから、60年代前期より後期の作品を何度も観た(尤も『男性・女性』『気狂いピエロ』こそ、60年代で美しい時期だと思っているが)。
 本の中でガレル、ガレルと私は繰り返し言う。私はガレルの映画を愛している。学生の頃からだ。多くの作品で、自分の愛した女性の「モデル」を女優に演じさせている。しかし、ゴダール的な女性への接近に疑問を感じるのは本当のようで、ニコやセバーグが直接出演した映画『内なる傷跡』や『孤高』を一口に褒められないのは、今も変わらないのだ。
 私は一度きりの映画で、彼女に何も要求しないことを守った。好き勝手に放してしまわないようにも配慮した。私に近すぎない「そば」というものを見つけて、そこに彼女を立たせた。私はその映画に出演した。映画の中で私は、彼女と関係を持たないようにした。私生活でも彼女とは関係を持たず、食事をし、散歩し、少し電車に乗り、一度か二度、映画を観に行くほどであった。

 これを書いたとき、話題にある「一度きりの映画」はクランクアップしたばかりだった。彼女とはどこにも出かけていなかった。この架空の文で、20代後半の私は「一度きりの映画」について成功を語っているわけではないし、どのようなシナリオかも記していない。おそらく21歳当時の、映画と女性への直接的な情熱を注ぎ下ろした過程にすぎない。私は現在も、同じことをし続けているらしいのだ。
(文:久和谷雄平)



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